神様からの小さな贈り物

エッセイ

 先日、駅前のオープンカフェで、白人青年がわたしが座っているテーブルの斜め前に座った。オーダーする時は大阪訛りの日本語を話し、表情が穏やかで、眼に力が漲り、青年らしい、何というか、こう、自分を取り巻く世界に興味深々な感じの、ハリウッド映画の主人公のようなオーラを醸し出していた。

 オープンカフェには、牛丼やたこ焼き、ケバブ、ドイツソーセージなどがインバウンド価格で販売されていて(例えば、小さな牛丼が一杯、2,800円だった)、わたしはカフェラテとレモンタルトを前に紙のおしぼりで手を拭いていた。

 彼の前には、天ぷらの盛り合わせとハム入りサラダ、ビールが置かれ、自然な感じで割り箸を使い、食べ始めた。

「どちらから来られたのですか?」

と、わたしがふいに尋ねると、

「アメリカのカリフォルニア州から来ました」

と、爽やかな笑顔で答えた。聞けば、彼はIT技術者で、カリフォルニアの本社に月に一週間だけ通えば良く、後は自分の好きな場所で暮らしながら仕事をしているのだという。大阪には2年間ほど住んだことがあり、近所から毎週のように聞こえていた太鼓の音が大好きだった、と話してくれた。

「ぼくの祖先はスコットランド出身なのですよ」

と、言うので、

「では、タータンをお持ちなのですね?」

と、尋ねた。(タータンとはスコットランドの北西部ハイランド地方の伝統的な柄の一種で、異なる縞模様と色合いで構成された格子柄の織物・・・コトバンクより引用)

「はい、もちろんです。スコットランド出身でタータンを持っていない、と、ちょっと人生的に厳しいですね。アメリカにもスコットランド人社会というものがありますから」

と、笑った。

 本当に流ちょうに日本語を話す。大阪訛りであるところも、ちょっとニクイ。

 彼は、デイビッド(仮名)は、スコットランド地方のお祭りで、ガタイの良い男性がタータンのスカートのようなものを履いて、大木をいかに遠くまで投げられるか競う、というものがあり、それは見ごたえがあるのだと、教えてくれた。

「アメリカの物価に比べたら何てことはないでしょうが、日本はフルーツが高いと思いませんか?」

 と、尋ねると、

「百貨店の、何十万円もするものは、もちろんダメ、高すぎると思いますが、5,000円くらいのフルーツは本当に美味しいと思います」

 と、眼を輝かせる。

 わたしが、35年ほど前、ワシントンDCのジャズクラブで、ナタリー・コールの歌を聞いて感動したことや、ナタリー・コールが曲と曲の間で話をしている時に、観客の携帯電話が鳴り、彼女が「わたしの話なんていいから、電話に出て」とジョークを飛ばした思い出話をすると、ふいにデイビットが「その頃、彼女は生きていたのかな・・・」と呟き、「いや、生きていたよ。セーフ、セーフ、セーフ」と言い、二人で笑い合ったのも印象的。わたしが、タイのチェンライの風景をスマホで見せ、カオソーイという鶏モモと野菜が入ったチキンヌードルが120円で黒豆のもち米のお握りが野菜付きで40円だったことなどを話すと、

「来月でも行ってみますよ。でも、チェンライが有名になると、観光客が押し寄せて物価が上がるから、SNSでは発信しない方が良いんじゃないですか?」

 と、言われたが、わたしはすでにさんざんチェンライの魅力をブログやXで書いてしまっているのだった。

 一時間ほど話していると、パラパラと小雨が降って来て、わたしが立ち上がり、

「お話しできてとても楽しかったです。See you again!」

 と言ったら、デイビットも、

「See you again!」

 と、微笑みながら手を振ってくれた。「See you again」と言うものの、わたしたちは連絡先の交換などしていないのだった。(年齢差を考えれば、当然だけれど・・・)

 知的で、ハンサムで、とてつもなく広い世界で生きているアメリカ人青年と話しができて、アラカンのわたしも、気持ちが生き生きした。

 こういう時間って、神様からの小さなプレゼントのような気がする。

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