「モノ消費より、コト消費」にわたしが思うこと

エッセイ

 今は、本当にモノに溢れている。

 投資系あるいは節約系Youtube動画や本では、さかんに「モノより経験」や「モノ消費より、コト消費」などと言われている。

 その言葉にはまったく同感するけれど、わたしみたいにアラカンになると、言われなくても(個人差はあるだろうけれど)、物欲はどんどん失われていく。

 思えば、わたしも、物欲に振り回されていた時代があった。

 特に、わたしは、それは貧しい子ども時代を送ったから、人一倍、いろんなものが欲しかった。

 19歳の頃は、余所行きのスカートは1着しかなかった。いっつも同じスカートを履いていて、しかも、壊れたチャックの部分を小さな安全ピンで留めていたのを覚えている。白いフワフワした、綿菓子のようなフレアースカートだった。

 40代になると、ハイブランドのバックを買って得意げに持ち歩いたり、アホのように高い財布をいくつも買っていた。一時は香水に凝って、シャネルやゲランの店にしょっちゅう入り浸った。夫と中古マンションを購入した時は、アンティークの本棚やテーブルと椅子、ペルシャジュータンを揃え、それらをうっとり眺めていた。

 わたしが、一番、散財したのは、やはり、何といっても指輪であろう。二年に一度はローンを組んで購入し、仕事にも付けて行き、心が辛くなると、ヒスイのアップルグリーンやトパーズのシャンパンゴールドを眼に近づけ、心の中を色で満たして、自分を慰めていた。

 仕事があるというのはありがいたい。そう頭ではわかっていても、サラリーマンという仕事は、正直、わたしには辛かった。

 バスという箱に入り、職場という箱に8時間拘束され、また、バスに戻る。職場での人間関係も密すぎて、容赦なく、勝手に扉を開けられ入って来られても、笑顔を浮かべなければならない。怒りたいシチュエーションでも、何も言えないことの方が多い。給料には我慢料が、大きなウエイトを占めている。

 つらつら考えていくと、時間に追われるサラリーマンや個人事業主にとって、物欲を満たすために働く、というのは、程度ものではあるけれど、ある意味、理にかなっている。手に入れて満たされる満足というものはある。

 もちろん、お金の心配がなければ、誰だって、好きなことを存分にしたい。わたしの場合、好きな料理をして、図書館に行って、プールで泳いで、猫と遊び、VRで映画を観たりしたい。あと、海外旅行(これが、金食い虫で、困っている)。

 仕事で時間がなくて、コト消費ができない人が、モノ消費をして、辛い仕事を何とか続けていく。やるせないけれど、それが、現実なのかなあ、という気が、最近はしている。

 お酒とタバコに対しても、わたしはどちらも好まないけれど、それらがないとやっていけない、手っ取り早くほっとしたい、疲れを和らげたい、という気持ちは、今は、分かるな。結末は、肝硬変や肺気腫、癌、などで苦しむ可能性があるから、中古本屋で、アレン・カーの「禁酒セラピー」や「禁煙セラピー」を買って、知り合いに押し付けて回っていた時もあった。わたしも「禁酒セラピー」を読んで、アルコールをすっぱり断つことができたから。

 その本を読んで、お酒や煙草を止めた人もいた。

 ひとりは、知り合いの夫で、もうひとりは、わたしの夫。

 まあ、知っているだけで二人ぽっちだけれど、おせっかいを焼いた甲斐は、十分にあったな。

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