60年も生きていると、ふとした拍子に「もしも」の扉が開く。
あの時、別の道を選んでいたら。
あの人と出会わなかったら。
もう少し、安心できる家庭で育っていたら。
考え始めると、次から次へと出てくる。淹れたコーヒーがすっかり冷めているのに気づいて、ようやく我に返る。
答えの出ないことを考えているうちに、今日という時間が過ぎていく。
そんな日が、わたしにもあった。
過去のことなのに、思い出せば、ちゃんと腹が立つ。人の記憶というのは、こういうときだけ、妙に誠実だ。
怒っていても、お腹は空く
あの人のせいで、と思うことには、それなりの理由がある。
実際、悪口を言いふらされ、呆然としたことがある。
なぜ、あそこまでわたしが我慢しなければならなかったのだろう。
今になっても、そう思う。
相手は今ごろ、そんなことはすっかり忘れて、おいしいご飯を食べているかもしれない。
けれど、わたしだって、お腹は空く。
そろそろ考えるのをひと休みして、自分のためにおいしいものでも作ろうかな。
母の話を聞きながら
母は、自分の母親への不満を、何度もわたしに話した。
どんな話をしていても、気がつけば、いつものところへ戻っていた。
母にも、つらかったことがあったのだろう。
けれど、子どものわたしには、どうすることもできなかった。ただ黙って、聞いていた。
大人になった今も、ときどき思う。
母には、ほかに話したいことはなかったのだろうか。おいしかったものや、きれいだった景色や、これからやってみたいことは。
わたしは、日々の楽しみも話していきたい。
今日読んだ本が面白かったとか。
コーヒーがうまく淹れられたとか。
そんな小さなことで、十分だ。
人の見え方は、ひとつではない
職場で知り合ったある女性が、自分を叱責した課長を、夫の力を借りて退職に追いやったのだと、嬉しそうに話していたことがある。
わたしは、良かったね、とはとても言えなかった。
その課長が、彼女のいないところで彼女を褒め、庇っていたのを知っていたからだ。
彼女には、彼女なりの言い分があったのだと思う。
ただ、わたしの知っている課長は、彼女の話に出てくる姿だけではなかった。
わたしにも、見えていないことがあるのだろう。
腹が立ったときほど、そのことを忘れずにいたい。
嫌なことを思い出すより、本を一冊
誰かのことを考えて、また一日が終わってしまう。
それなら、その時間で本を一冊読めたかもしれない。
一冊は無理でも、十ページくらいなら。
わたしには、読みたい本がある。書きたいものもある。
いつか歩いてみたい街もある。
そう考えると、案外、忙しい。
悔しさは、無理に捨てなくていいのだ。
向ける先を変えればいい。
ここからは、自分で選ぶ
だからわたしは、「原因自分論」で生きていこうと思う。
もっとも、何でも自分のせいにする、という意味ではない。
親からひどいことを言われ続けたことも、理不尽な扱いを受けたことも、自分の責任にする必要はない。
わたしがこの言葉に込めたいのは、「では、ここからどうしようか」と、自分に問いかけることだ。
今日、誰と会うか。どんな言葉に耳を傾けるか。何に時間を使うか。
今の自分に選べることから、選んでいきたい。
嫌なことを思い返していると、その出来事が、今の暮らしの真ん中にまで居座ってしまうことがある。
そろそろ、読みたい本や、書きたいものに場所をあけてもらおう。
怒りは、大きなエネルギーになる。
その力を、少しずつでも、自分のやりたいことに使っていけたらと思う。
すぐには忘れられなくてもいい。
何かに打ち込んでいるうちに、思い出さずに過ごせる時間が増えていけば、それでいい。
「もしも」の扉は、たぶんこれからも、ときどき開くだろう。
そのときは、コーヒーを淹れ直して、読みかけの本を開こう。
遠い街の写真を眺めよう。
🍃生きる力が湧いてくる本です。

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