猫が言葉を話せたら

エッセイ

 我が家の長女のジジ。くつろぎながら、目で何かを訴えかけてくることがある。

 わたしは、20年前に猫の保護活動をしていたことがあり、ペットショップには反対の立場で、今もそれは変わっていない。

 しかし・・・。あれは、2年前。息子と娘が巣立ち、仕事のストレスが半端なくウツで倒れかけそうになった時、発作のように猫を飼いたくなった。公園にも探しに行き、近所の動物病院にも片っ端から電話をかけ、保護猫がいないか聞いて回った。動物保護団体にも問い合わせたが、譲渡した後、月に一度は訪問して様子を見ることが条件だと言われた。それは、譲渡した犬猫が虐待を受けていないかの確認をするために仕方がないことだけれど、あの時の自分には受け入れられなかった。猫を飼うことに反対していた夫が、良く知らない他人を家に入れることに納得するはずもなかった。

 休日、街を彷徨うように歩いていたら、ペットショップのウインドウでサンサンと真夏の陽を浴びてうつろな目をしていた子猫と眼が合った。それが、ジジだった。

 20年前、職場の近くにあった大きな公園には野良や捨てられた猫であふれていた。あの光景を目に浮かべるとやはり胸が痛い。ジジを最期まで大切にし、退職したら猫の保護活動に再び勤しもうと思う。

 しかし、ペットショップとハイブランドショップは似ている。たくさんのお金と引き換えに、どうにかして満たされない心を満たそうとする人が訪れる場所かもしれない。

 猫を飼うことに反対していた夫も、今ではジジを抱っこして、「パパですよ」などと言っている。

 猫を見るたびに、こんな可愛らしいものが、生きていて、自分の意思を持って、「そういえば、今日はチュールをまだ食べていない」などと、目で訴えてくることをキセキのように感じることがある。冬にうっかり温めずに猫用ミルクを与えたら、一口舐めて「チュメタイ」という風に首をすくめ、じっとわたしの顔を見つめていた表情も愛おしい。また、猫用の玩具より、重ねた段ボールで遊ぶ方を好むところも気になる。もちろん、名前をいくら呼んでも来ることはない。しっぽの先を動かすくらい。

 

 

 

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