もう少し生きて、小説を書いてほしかった。わたしが心からそう思う作家のひとりが、サン=テグジュペリだ。
彼は1944年、44歳で亡くなった。第二次世界大戦末期、偵察飛行に出たまま帰還せず、地中海に消息を絶った。その最期の詳しい状況は、いまも明らかになっていない。
わたしがいちばん好きな彼の作品は、なんといっても『星の王子さま』だ。

子どもの頃に読んだときは、よく分からなかった。けれど大人になり、齢を重ねるほどに、この物語は心の奥深くまで届くようになった。今では、読み返すたびに涙がこぼれてしまう。
あまりに純粋な王子さまと、砂漠に不時着し、孤独と不安の中にいる飛行士。ふたりの会話は、奇跡のように優しくて、面白くて、悲しい。読んでいると、自分もその場に居合わせているような気持ちになる。そして、この物語を書いてくれたサン=テグジュペリに、深い感謝を伝えたくなる。
その彼が、飛行士たちの仕事と、生死の境を描いた小説が『夜間飛行』である。
この本を、わたしは何度も開いては、あまり興味を抱けずに棚へ戻していた。それでも、ずっと気になっていた。読まないのに、なぜか気になって仕方がない小説。そういう一冊は、誰にでもあるのかもしれない。
『夜間飛行』は、夜の空を飛び、郵便を運ぶ飛行士たちの物語だ。
けれど読み終えて、わたしの心に残ったのは、嵐の中を飛ぶ飛行士の姿だけではなかった。ひときわ印象に残ったのは、地上で夫の帰りを待つ、ひとりの妻の姿だった。
予定の時刻を過ぎても帰ってこない飛行士の夫、ファビアンを案じて、妻は支配人のリヴィエールに会いに行く。
「自分というものが、ここに在っては、敵意のある真実を表明しているという事実を、彼女は、せつない気持ちで、思い知った。彼女は、ここへ来たことを後悔しそうな気持になり、どこかへ隠れたいとさえ思ったが、ようやくそれを耐えていた。彼女は目立つまいがため、咳をすることも、泣くことも我慢した」
そして、逃げ出したくなった彼女が、リヴィエールに向けた言葉。
「――お邪魔でしょう……」
このひと言で、彼女の痛みと苦しみ、そして気高さが、一気に伝わってくる。
夫の消息を知りたい。その一心で訪れただけなのに、彼女は、自分の存在がこの場を困らせていると感じてしまう。取り乱すことさえできず、哀しみを押しとどめて立っている。
夜間飛行という事業を担う者にとって、ファビアンはひとりの飛行士だ。けれど、彼女にとっては、かけがえのない夫である。その人の帰りを待つ暮らしが、彼女にある。
彼女が現れたことで、空にいるファビアンの命の重みが、地上にまで広がってくる。この妻の描写が、小説に深い奥行きを与えているように思えた。
一方、嵐の中で地上を失ったファビアンは、照明弾を放つ。その光の下に広がっていたのは、陸ではなく海だった。
戻る場所も分からず、燃料は尽きていく。闇と突風に疲れ果てた彼には、頭上の星が見えた。
「彼の頭上に当たって、暴風雨の切れ目に、魚簗(やな)の中の命取りの餌のように、二、三の星が輝いた。(中略)光明に対する彼の渇仰がいかにも激しかったので、彼は思わず上って行ってしまった。」
罠であっても、光に向かわずにはいられない。その切実さが胸に迫る。
雲の切れ目を抜けたファビアンを待っていたのは、嘘のように静かで、まばゆい世界だった。眼下には月に照らされた雲の海が広がり、頭上には星がある。さっきまでの嵐が信じられないほどの、澄みきった美しさだ。
けれど、その美しさは、彼を地上へ帰してはくれない。燃料は残り少ない。
この場面を読んだとき、わたしも、ファビアンと同じように、異様な静けさの中に入り込んだ。
一瞬、心が澄み渡った。
恐ろしいはずなのに、どこまでも静かで、透明だった。
物語の最後、リヴィエールは、ファビアンを失ったあとも夜間飛行をやめない。次の郵便機を、また夜の空へと送り出す。
その決断は冷たくも見える。彼の選択を、そのまま肯定することは、わたしにはできない。ファビアンの死に物狂いの戦いの果てと、彼の帰りを待つ妻の姿が、心に残っている。
それでも、リヴィエールもまた、人を失う痛みの外に立っているわけではない。そこには、一人の人間の生涯を越えて続いていく仕事を信じようとする、彼なりの孤独な祈りがあるように思えた。
嵐の上の星空へ昇っていったファビアン。そして、地中海の空に消えたサン=テグジュペリ自身。わたしには、その二つの姿が重なって見える。
砂漠に不時着した飛行士のもとへ、小さな王子さまが現れるあの物語も、この夜の空とどこかで繋がっているように感じられる。孤独の中にいる人と、その人を思う誰か。空と地上を隔てていても、消えずに残るものがある。
長いあいだ棚に戻し続けていた一冊は、ようやく、わたしの心の中で星のように灯った。
引用・参考文献:サン=テグジュペリ『夜間飛行』堀口大学訳、新潮社、昭和31年発行
🍃読み終えたあと、不思議と心が澄み渡る一冊です。
![]()
夜間飛行 / 原タイトル:VOL DE NUIT[本/雑誌] (新潮文庫) (文庫) / サン=テグジュペリ/〔著〕 堀口大學/訳

コメント