わたしはL’Arc〜en〜Cielのフアンで、ボーカルのhydeさんの声と歌い方が大好き。もう30年来のファンである。そして、夫がhydeさんと同じ歳であることが、ちょっと嬉しかったりする。(もちろん、見た目は恐ろしく違う)
あれは子育てに明け暮れていた20年前。ふと、思ったことがある。あの叙情的な、心に絡みつく歌声を文体にして小説を書いたら、わたしも作家デビューできるのではないだろうか、と。
そして、自分が読んだ小説の中で、hyde さんのあの熱を帯びた絡みつく歌声を文体にしたら、と考えていたら、野坂昭如の「火垂るの墓」の文章になるのではないかと思い至った。
思い至ったまでは良いけれど、「火垂るの墓」を実際に読み込んで自分の血肉にするのは辛過ぎて、とてもじゃないができなかった。アニメも見たけれど、もう無理、と心底思った。
「ぼくは、この小説に出てくる主人公みたいな優しい兄ではなかった。妹の食べ物を取り上げて食べて、その結果、妹は餓死してしまったのです」
と、生前、野坂昭如さんがインタビューに答えていらっしゃるところをテレビで見てショックを受けたことも影響しているかもしれない。でも、長い戦争が続けば、誰だってそうなるだろう、誰だって。
元々、わたしは、子どもと動物が哀しい思いをする話は、神経がキリキリ痛むので、読むことができない。一時期、ひどい不安神経症に苦しんだこともあり、今もそんな類の小説は避けて生きている。(わたしはバスの中で五味川純平の「人間の条件」を読んでいて、軽い過呼吸を起こしたことがある。子どもは出てこないけれど、残酷な戦争ものの小説だった)
今、hydeさんの歌を聴いて思いつくとしたら、石田衣良の「池袋ウエストゲートパーク」と東山彰良の「流」だろう。村上龍の「限りなく透明に近いブルー」も浮かぶ。文章がセクシーで魅力的でため息がこぼれる。そういう意味で、太宰治の「斜陽」も繰り返し読むほど好き。華族の真彦が姉に宛てた手紙の中で独白するところは、まさに滅びの美が最期の輝きを放ち、読み返すたびに心の深いところが痺れてくる。(アラカンになっても、そういう感覚は衰えません)
東山彰良さんの講演会に行った時、
「ぼくは歌も歌えないし、楽器も弾けないけれど、ミュージシャンになりたかったのです」
という言葉に、
「ああ、やっぱりね」
と、心の中で呟き、ニヤリとしたわたし。だって、文章がゾクゾクするほど格好良いのだもの。文章の中で、ロックしてるし、バラードしてるし、読者の魂にファルセットとビブラートとシャウトを駆使して言葉を刻みつけている。
ホント、作家って、カッコいいなぁ・・・。
※ なお、わたしがコトコトライフのブログ以外の場所で、ショップを開いたりグッズを販売したりする行為は、一切行っておりません。
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