タイのチェンマイで見かけた貧しい日本人青年

エッセイ

 わたしは、2023年にタイのバンコクとパタヤ、台湾の台北、ベトナムのハノイ、タイのチェンマイと計4回、海外旅行に行った。結婚し、子育てと仕事をしていたわたしが海外旅行に行くのは35年ぶりで、コロナ禍で半蟄居状態も経験し、その反動で、昨年は東南アジアに行きまくった感がある。

 つくづく思うのは、仕事を続けてきて良かった、ということ。仕事を続けてきたから、株投資を始めることができ、早期退職はできなかったけれど、フルリタイアが見えてきた。自分の自由に使えるお金があるのは、やはり、とても心強い。

 わたしは、本当に貧しい子ども時代を過ごした。着るものは近所の人たちからもらうお古で、旅行なんて一度たりとも行ったことがない。小遣いは、いつも駄菓子屋に通う30円ほど。自販機のファンタグレープが憧れの飲み物だった。

 当時、果物屋の前の地べたの置かれた、籠に入った腐りかけた果物が30円で売っていて、欲しくて欲しくて仕方なかった。家が貧乏で芯から果物に飢えていたのだ。恥ずかしくてどうしても買えなかった。この籠を、アラカンの今なら買える。しかし、子どもであっても、本当に貧しい暮らしをしていると、貧しいというだけで引け目を感じ、悟られることに苦痛を感じてしまうのだ。それだけ、貧しいということで、いつも辛い思いをしてきた。

 イギリスに、

”We were poor but we were happy”(わたしたちは貧しかったが、幸せだった)

 という、わたしが何となく好きな言葉がある。

 日本にも、「ボロは着てても心は錦」という言葉があるが、こっちは、好きではない。この言葉はもともと、古代中国の言葉、「被褐懐玉」からきているらしい。

 ネットの意味解説辞典によると、

「被褐懐玉は粗末な着物を着ていても内面には見事な人徳を抱いているという意味で、これを日本人にもわかりやすく和訳した言葉が「ボロは着てても心は錦」と言えます」

 ということ。確かにそういうことはあるかもしれないが、人は、そんなに強い存在なのだろうか、という気がする。本当の貧乏を経験した者からすると、「貧すれば鈍する」という言葉の方がしっくりくる。我慢ばかり強いられるから、他人の言葉にも傷つきやすくなるし、妬む心も持ちやすい。

 しかし、

 ”We were poor but we were happy”

 という、イギリスの言葉は良いなあ。主語が”we”というところが良いし(まあ、階級制度の現れだろうけれど)、貧しかったけれど幸せだった、という状況は確かに存在すると思う。金持ちだったけれど、不幸だった、という状況があるように。映画でいうと「三丁目の夕日」みたいな、漫画でいうと「チビまる子ちゃん」のような世界だろう。

 どうして、こんなことを書いているかというと、11月上旬に行った、タイのチェンマイで、とても貧しい日本人青年を見かけたからだ。

 彼は30歳前後で、腰まで伸びた髪の毛を輪ゴムで一つに束ね、Tシャツと短パン姿で、裸足で路地を歩き回っていた。小学生のようにこんがりと日焼けして、不自然なほど瘦せていた。そして、飲食店に、日本語訛りの英語で、

「おはようございます!ぼくは日本人です!」

 と、声を駆けて回っていた。思うに、おそらく、何か食べ物を分けてもらいたかったのだろう。

「日本人の方ですか?」

 と、思わずわたしが声を掛けると、彼は目を見開き、

「そうです。ぼく、シンガポールで6年間、沈没していたんですよ」

 と、微笑んだ。

「よかったら、お話を聞かせてもらえませんか?食事でもご馳走させてください」

 と、言ってみたが、

「ありがとうございます!でも、これから、ぼく、予定があるんです。チェンマイを楽しんでください!」

 と、答え、足早に歩き去って行った。

 なぜ、若い青年が日本で、いや、外国ででも、働くことをやめてしまったのだろうか。日本に帰る家はないのだろうか。これから、どうやって生きていくのだろうか・・・。いろんなことをそれとなく、聞いてみたかった。

 しかし、他人の好意に甘えられない瞬間があること、これは、本当の貧乏を知ってしまった者の、特徴には違いない。

 旅行から日本に帰って来た時、わたしの財布には1,000バーツ札が4枚入っていた。これを、あの青年の、こんがりと日焼けした手に渡せていたら、と唇をかむ。あの青年に、幼い頃の自分が重なって滲んだ。

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