宗教団体について思うこと

エッセイ

 アラカンにもなると、宗教に興味を持ってくる。

 誰しも死からは逃れられないのだし、死への恐怖を和らげてくれるものと言ったら、宗教しかないような気がする。

 しかし、わたしの場合、祖母がA会の熱烈な信者で、母もわたしも半ば無理矢理、入信させられていた苦い思い出がある。

 わたしは子どもの頃、身体が弱くて月に一回は扁桃腺が腫れ熱を出していた。当時は土曜日も12時まで学校があり、休みは日曜日と祝日だけ。なのに毎週日曜日には、朝早くからA会の集会があり、子どもたちはA会所有の建物の講堂に集められ、

 「ぼくたち、わたしたちは獅子だ!」

 などと叫ばせられ、子ども向け宗教の話を聞かされ、皆でお経を1時間も唱えたりしていた。(家では毎日、家族で唱えていた)

 当時、わたしの家の近くに、生活保護でボロボロのアパートに住んでいるおばあさんがいて、一度遊びに行ったことがある。そのおばあさんも会員だった。驚いたのは、そのおばあさんが、A会が毎日発行している新聞を5誌もとっていたこと。同じ新聞が5つも、粗末で小さなちゃぶ台の上に並んでいて、わたしは8歳くらいだったけれど、

 「これが神様に認められるということなのだろうか?」

 と、嫌な気分になった。おばあさんの部屋は3畳で壁に亀裂が入っているくらいボロボロなのに、A会の立派な仏壇がデンと置かれてあって、こっそり覗いた冷蔵庫は見事に空っぽだった。

 祖母に連れて行かれ、A会の会長の半生を描いた映画を観に行ったこともある。筋は忘れてしまったが、会長が独房に入っていて、腕に止まった1匹の蚊に自分の血をじっと吸わせている場面が印象に残っている。1匹なら我慢できても千匹なら大声を上げながら叩き回っているはずだ、と心の中で呟き、

 「神様、ごめんなさい」

 と、急に怖くなって、謝ったりしていた。

 あの頃、毎日のお経を欠かしたら、取り返しのつかない罰が当たる、と本当にそう思っていた。こういう感じの宗教って多いのではなかろうか。神様を崇め、平伏し、お勤めを果たしている限りは平穏無事で守ってももらえるが、反逆すれば(つまり改宗したりすれば)地獄に落ちる、というような・・・。でも、これって、独裁国家の洗脳教育と何が違うのだろうか?また、こういう強迫観念にがんじがらめになって、不安神経症患者は生まれるのではなかろうか?

 祖母はずっと貧乏に苦しんでいたのに、24金でプレートされた、正月用の盃を当時20万円ほど出して買っていた。功徳を積むためである。窮地に陥った人を助けたりもしていたが、それは常に入信が引き換えだった。入信者を増やすことも自分の功徳を積むことになる。もちろん根底には、その人を救ってあげたい、という気持ちがあったのだろうが・・・。

 アラカンのわたしは、会いたい時に会えば良いような神様が良い。決してお金や時間を要求されず、慈悲深く、お顔を見るとホッとするような。できれば、ふくよかで慈愛に満ちた仏様の顔が良いけれど、この際、猫の顔でも良い気がする。

 「猫教」

 教義は何もないけれど、猫の匂いや手触り、遊んだこと、抱っこした思い出を胸に、旅立つのも良いかなあ。

 

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