ドイツの冬に打ちのめされた思い出

エッセイ

 わたしが住む街にも寒波がやってきた。

 外に出ると寒くて、頬や手、つま先がジンジンする。こういう状況を、わたしの住む地方都市では「しろしい」と言う。「難儀」という意味で、味があって面白い言葉。けれど、子どもの頃に住んでいた別の街では「しろしい」は「うるさい」の意味だったから、わたしは今だにこの言葉に馴染むことができない。

 今日も、地面は凍っていて、気温はマイナス4℃。ああ、ホント「しろしい」。

 そして、わたしは、35年ほど前、こんなしろしい季節に(2月から3月にかけて)ドイツに1ヶ月ほど滞在して、大風邪をひき、当時の西ベルリンで入院したことがある。

 わたしはドイツのシックな街並みやドイツ人の紳士気質に触れ感動し、今もドイツが大好き。ヨーロッパに住むなら治安の良いドイツに住みたい。イギリスは緯度的にすごく寒そうだし、フランスはちょっと敷居が高い気がする。

 ドイツの建物は、ケルン大聖堂のようなゴシックな雰囲気の見応えがあるものもあるけれど、ハイデルベルグのような切なさの漂った川べりの学生街やローテンブルクやニュールンベルクのような御伽話の世界のような街もすごく素敵(ローテンブルクは赤ずきんちゃんが出てきそうで、ニュールンベルクは妖精が出てきそうな雰囲気だった)。

 しかし、冷え性の、野菜が大好きな日本人のわたしが冬のヨーロッパに1ヶ月も滞在するのは、設定に無理があった。1週間くらいが限度だったと今でも思う。

 雪と氷に覆われた外から帰ってきても、炬燵も鍋ものも、暖かい毛布も、ホカホカのご飯もドイツの部屋にはない。ドイツのパンは硬くて、酸っぱいライ麦パンで、食パン好きのわたしの口にはまったく合わなかった。しかも、ドイツ人はパンを焼いたり、レンジで温めたりせず、冷たいまま食べる。氷点下の真冬なのに、ホームステイ先でも、デロンギのような微かに感じる暖房器具しかなく、羽布団一枚で、温いシャワーしか浴びれないことに加えて、朝食と夕食はパンと薄いハム、それにコーヒーかハーブティーというメニューだった。(昼食は、小さな肉料理とカップスープを出してくれた)

 ハイデルベルクでは、小さなオニギリを3個セット、900円ほどで販売するアコギな日本人の店があった。(もちろん購入しました。オニギリは冷たくて硬くて、食べながら涙が出てきたことを覚えている)

 まあ、あれは35年前だったから、今はドイツの様子も違うだろう。

 しかし、当時、まだ日本人には馴染みのなかった炭酸水がレストランでもカフェでも出されたのは、わたしには打撃だった。スーパーマーケットでも炭酸水しか売っておらず、風邪を引いていたわたしはこの炭酸水を飲むたびに喉を刺激され激しく咳き込んでいた。

 ビーフステーキはどの店に行っても顎が痛くなるほど硬いし、魚料理のマスを注文したら、長さ30センチの茹でただけのマスがドーンと出された(レモンと塩は添えられていた)。

 ユースホステルで同じ部屋になった20歳くらいの女の子が、別れ際に自分の髪の毛を切って輪ゴムで止めたものと(本物の)ウサギの足を「お守りに」とくれた時も、微妙な気持ちになった。

 その女の子から、

 「寒いけれど、湖に泳ぎに行かない?」

 と、誘われた時も耳を疑った。

 つまりは体質と感覚が違うのだろう。農耕民族と狩猟民族の違いのような。

 ダッハウ強制収容所を見学に行った時、はしゃいでいた白人のカップルに、

 「ここははしゃぐような場所ではありませんよ」

 と、今思えば、出過ぎたことを言ったりもした。

 わたしにとって、ダッハウ強制収容所は「夜と霧」の作者、フランクル先生が最初に入れられた収容所で(先生は後にアウシュビッツに移送された)、フランクル先生の妻と子がガス室に送られた場所だった。しかし、そんなことは彼らには何の関係もなかった。ただ、デートをしていたのが、その場所だっただけだ。

 ホームステイ先のおじいちゃんから、ナチスの党員だった17歳の頃の写真を見せられたり。思い出すと、いろいろ悲しくなる。

 それにしても、ヨーロッパの冬はものすごく寒い。ウクライナの人たちのことを考えると本当にやりきれない。わたしにはできる限りのお金を寄附するくらいしかできないけれど、世界中からの寄附はジワジワと武器になっていくのかな。ウクライナの人たちの食料費や暖房費にもあててくれるといいのだけれど。

 ヨーロッパには壮大な美しさが溢れる教会があちこちに建っているけれど、神様って、いるのかなあ。

 

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