清貧の美徳(得?)

エッセイ

 ああ、寒いのって、本当に嫌。わたしは若い頃から冷え性で、冬は電気毛布がないと眠れないし、足の裏が冷えて痛くなる。(今は足裏カイロを貼ってしのいでいる)

 寒いと、寿命が縮んだり、認知症を発症しやすくなるようだ。まあ、それだけ大きなストレスになるのだろう。

 バルビゾン派の画家、ミレーは、

 「どんなに辛くとも、わたしは冬という季節を失いたくない」

 と、言ったそう。冬という過酷な季節の中で感性が研ぎ澄まされ、「種蒔く人」や「晩鐘」、「落ち葉拾い」などの名画が誕生したのかもしれない。ミレーは9人も子どもがいて、生涯餓死寸前の生活を送ったようだ。ああ、例えどんなに絵の才能に恵まれようと、そんな生活はわたしには無理。ヘタレのわたしは、想像しただけで頭がクラクラしてしまう。

 ある冬の夕方、そんなことを考えながら家の近所を歩いていたら、電柱に隠れて向かいのビルをじっと見ている夫が目に入った。そのビルの一階にはパン屋が入っているのだった。

 その時、夫が着ていた黒いジャケットコートは、1999年にダイエーホークス(今のソフトバンクホークス)が優勝した時、ファンだった夫があまりにも嬉しそうにはしゃいだので、記念にわたしがプレゼントした物だ。夫はそのジャケットコートを20年以上着ていて、ヨレヨレのトレンチコートがトレードマークの「刑事コロンボ」(この刑事ドラマを知っている人も、少なくなっただろう)も真っ青、というくらいくたびれて色褪せている。

 張り込みをしている刑事のように真剣な表情でパン屋を見つめていた夫を、わたしは少し離れたところから見ていた。間も無くしてパン屋の中から、エプロンを付けた中年女性が出てきて「夕方セール20%オフ」という貼り紙をし、その貼り紙に吸い込まれるように、夫がパン屋に入って行った。

 わたしもそっと夫の後ろからパン屋に入って行く。夫はメロンパンやサンドイッチには目もくれず、6枚切りの食パンを取り、レジに向かった。そして、店員さんに、

 「切れ端をください」

 と、小声で囁くように言った。

 その瞬間、わたしはレジの店員さんと目が合った。店員さんは沈んだ表情でわたしの目を三秒ほど見つめ、レジを打ち始めた。店員さんの目は、わたしにこう語りかけていた。

 「あなたも見た?世の中には、この人のように貧しくて生きるのに精一杯の初老の男性がいるのよ。わたしは、パン屋の店員である前に、人でありたい。人でありたいわたしは、こういう貧しい人を少しでも支えていきたいの」

 考えすぎだろうか?いや、夫が持ち帰るパンの耳は、いつも、2割引で240円で購入している食パンより多くずっしりと重いことを思えば、あながち、外れていない気がする。しかも、洋酒に浸けたレーズンパンやくるみパン、キャラメルパンなど、いろんな高級なパンの切れ端が入っている。

 それを、我が家ではオヤツにしていて、わたしは職場に持参し、小腹が空く午前中にこっそり食べたりしている。身なりが貧相だと損するものばかりと思っていたが、こういう得をすることもあることを、わたしは夫から学んだ。

 また、最近、夫が、20年ほど前にわたしがプレゼントしたコーチの黒い財布を見せてくれたが、それはまるで新品のようにピカピカしていた。

 「いや、ずっと、お札入れとしてバックに入れて持ち歩いているよ。でも、ぼくは基本的にお金入れには銀行の封筒を使っているから」

「・・・」

「いやいや、無闇に銀行の封筒をとってないよ。お金を下ろした時に一枚もらっているだけだよ」

 と、慌てて言い訳じみたことを言っていたが、夫がどの銀行の封筒が厚みがあって破れにくいかということを把握していることや、夫の職場の通り向かいにある地銀のATMの横に、

 「封筒がお入り用の方は、恐れ入りますが二階の窓口までお越しください」

 と、いち早く貼り紙がされるようになったのも知っているのである。

 そりゃ、ヨレヨレのコートを着て、破れかけた銀行の封筒から小銭を出されたら、思わずパンの切れ端を多く渡したくなるだろう。わたしは、パン屋の心優しい店員さんに申し訳なく思いながら、今日もベリーのたっぷり入ったパンの切れ端を頬張るのだった。

 

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