微妙な空気が流れる時

エッセイ

 先日、女子トイレで、職場の同僚の女性(わたしより一回りほど年下)と、100円ショップの靴下の話で盛り上がった。

 「実は、わたしも、コトさんと同じく、百均の黒いソックスを履いているんですよ。履き心地、悪くないですよね」

 「そうですよね、黒でいくつか揃えておくと便利ですね。服とのコーデも迷わないし、破れてもカタカタにならないし、汚れも目立たないですしね」

 「ヘタってきたら、惜しみなく捨てられるところも助かりますね」

 「あ、100均はパンツも良いですよ。生地もしっかりしていますから」

 わたしがそう言うと、彼女はピタリと口を閉じた。

 「・・・」

 女子トイレの中に微妙な空気が流れた。鏡越しで、彼女の表情が固まっているのが見えた。

 (そこは、落としたくないの)

 彼女の、しっとりと澄んだ瞳は、そう呟いていた。

 そう、人生には通り雨のように、微妙な空気が流れる瞬間がある。

 先日も、あるマンションを尋ねると、男性二人がインターフォンの取り替えを行っていた。

 「居住者さんですか?」

 と、問われ、

 「いえ、マッサージに来た者です」

 と、答えると、二人の男性は困惑気味に視線を落とした。

 「つまり、アロマオイルマッサージを受けに来たんです」

 と、言い直そうかと思ったが、面倒だったので、開けてもらったエントランスの自動ドアを黙って入って行った。え?え?と、心の中で呟きながら、まとわりつく微妙な空気を振り払うため、フリスクをふた粒、口に放り込んだ。

 まあ、生きていると、こんなこともあるわ。

 しかし、我が人生で、微妙な空気感のナンバーワンは、あの時だろう。

 わたしは24歳で、タイのホテルのエレベーターにひとりで乗っていた。髪をソバージュにして赤い口紅を付け、タイシルクの花柄のワンピースを着ていた。ホテルのあちこちにプルメリアやハイビスカスの花が飾られ、その華やかな香りはひどく官能的で、むせそうなほどだった。

 その時、白人の男性がひとり、エレベーターに入ってきたので、ハロー、とわたしは彼に微笑み掛けた。エレベーターの中にはわたしとその男性の二人きり。

 その白人男性は30歳前後で、ウエーブした髪が頬にかかり、ハシバミ色の大きな二重の瞳が濡れたように光っていた。小さなプルメリアの蕾がまたひとつ、どこかで咲いた気がした。映画のワンシーンのように、わたしは彼と見つめ合った。

 その瞬間、微妙な空気が流れた。

 彼は、突然、表情をギラギラさせ、わたしに問うた。

 「How much?(いくら?)」

 ・・・このエピソードは、何故か、日本人に話すと引かれ、外国人に話すと爆笑される。

コメント

  1. ひのっぴー より:

    文章上手くて読んでて心地よいです。