美しい手話に感動した日

エッセイ

 わたしは高校生の時、近所の、聾学校に通っていた女の子と友達になり、そのことがきっかけで大学で聾教育を専攻し聾学校の教員免許をとった。しかし、わたしが就職するタイミングで二つあった聾学校が統合され、教員募集がなく、結局、わたしは聾学校の先生になることはできなかった。(わたしの人生はこういうことの連続のような気がする)

 しかし、知り合いになった女の子の手話が、キレッキレで格好良かったことを今も覚えている。当時流行ったフランスの女優のソフィー・マルソーに似た、とっても可愛い少女だった。赤ちゃんの時、高熱が出て耳が聞こえなくなったのだ、と話していた。

 聾学校で生徒たちと過ごした3週間の教育実習がすごく楽しかったことも良い思い出。高校3年性のクラスには8人ほどの生徒がいて、昼休みに生徒たちから手話を習ったりしていた。一緒に遠足にも行ったし、お好み焼きを食べに行ったりした。

 当時は、わたしも若くて記憶力が良かったし好奇心に溢れていたし、そこそこ手話が身についていた(と思う) 。しかし、言葉は使っていないと忘れていく。今は、もうわずかな単語と指文字を覚えているくらい。

 さて、わたしは役所の窓口対応をしており、たまに耳の聞こえないお客様がやってくる。先日は、耳の聞こえない若い男性が、会社の証明書の申請に来られた。

 わたしは覚えている限りの手話でやり取りをしたが、今思えば、あれは手話などではなく、単なるジェスチャーと指文字だった。「確認する」と言う手話を使うも、

「指の向きが違いますよ」

 と、ご指摘を受ける始末・・・。

 でも、普段使っている言葉以外のもので、例えば手話や英語で会話するのはやっぱり楽しい。やったー!意思疎通ができた!という喜びが湧く。

 窓口で、くだんの男性と一通りのやり取りが終わり、わたしは右の掌を立てて左の手首を軽く2回叩いた。(チョップ、チョップみたいな感じ。伝わっている?) 今思えばあれは「ありがとうね」くらいの、友達同士で使う、くだけた表現だったのかもしれない。男性は笑顔で、掌を自分の鼻くらいの位置に持っていって、一回だけ左手首を叩き、再び鼻の位置まで戻した。 

「ありがとうございました」

 彼は謝意を美しい手話で表現し、その瞬間、周りの空気がピーンと澄み切った。彼の、手話の礼儀正しさが胸に染み渡ってきた。

 何て言うか・・・自分のように適当に言葉を使っていてはダメだと反省した。大まかにでも伝われば良いと、どこかで思っている。「言葉には言霊が宿っている」ということを思い出させてくれた出来事だった。

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