名前で苦しんだ経験、ありますか?

エッセイ

 わたしは今、役所の窓口で働いている。

 そこで目にするのはいろんな人の名前。

 様々な名前に様々な人生を彷彿とさせられる。これは、流石に若い時はイジられただろう、と思う名前に出会うこともある。

 わたしが中学校の時、「真理」と書いて「シンリ」と読む名前の男の子がいた。親は哲学か何かに憧れたのかもしれないけれど、女の子みたいな名前というだけで、クラスで虐められがちだった。親は想像しなかったのだろうか?愛する我が息子が「マリ」とからかわれるだろうことを。その男の子はとてもおとなしく、何かを諦めたような表情で学校生活を送っていた。「もっと普通の名前だったらなあ」と、子どもながらにわたしは唇を噛んだものだ。

 先日、70代くらいの女性が窓口に来て、

 申請書に「鈴木えみこ」(仮名)と、下の名前を平仮名で書いた。身分証明書を拝見すると、「えみこ」ではなく「恵美子」だった。わたしがご指摘すると、

「平仮名の方が書き易いからね、つい、こう書いちゃうのよ」

と、笑っておられた。わたしはこういうイージーさって好き。名前なんて、書きやすくて目立たない、それでいて親の思いがほのかの感じられるようなもので良いのではないか、と最近は思う。目立ちたくなったら、ハンドルネームで凝ればいいし、ハンドルネームは何度でも自由に変えられる。

 わたしも若い頃、名前の画数に詳しい叔父に散々名前でイジられたものだ。わたしの名前は至極ありふれたものだが、画数的には最悪だったようだ。叔父とは、盆と正月は必ず顔を合わせなければならなかったから、年に二回は、名前の画数のせいでどんなにひどい人生が待っているか延々と脅され、名前など自分の力でどうすることもできないから、あまりのストレスにわたしは泣き喚いたこともある。

 さて、結婚し、自分の子どもが生まれる時、わたしはくだんの叔父に相談し、できる限りの良い画数の名前を付けた。だから、わたしの子どもたちの名前は二人とも「4+10+8+3」である。わたしは、名前の画数など、まったく信じていない。そんなもので人生が決まるはずがないと思っている。しかし、我が子に、自分のように、名前の画数なんかで嫌な思いをさせたくなかったのだ。

 一度だけ、たまたま名前の画数に詳しい知人ができ、子どもの名前を書いて見せたら、

「ほお、素晴らしい画数だね。完璧!」

 と、お褒めいただいた。何だかお湯のような温かいものが胸を流れて、わたしは涙ぐんだ。

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