わたしが子どもの頃、「押し売り」という人たちがいた。
ピンポンと呼び鈴を鳴らし、ドアを開けると風呂敷の包みを抱えたオジサンが玄関の上り口に座り込み、タワシやボウル、タライなどを広げて購入するまで帰らないのだ。当時、わたしは幼児だったから、いつもトイレに隠れてじっと息を潜めていた。
ウイキペディアで調べると、
昭和30年代には、主婦が一人でいる時間を見計らって玄関に上がり込み、粗悪なゴムひもや縫針などを法外な値段で売りつける者がしばしば存在した。「昨日刑務所から出所したばかりで、これからは正業で生きていく身だ。そんな気持ちを踏みにじる気か?」と恫喝するのがお決まりであった。当時は電話機の無い家庭も多く、助けを求めることは困難であった。
とのこと。我が家に来た押し売りのオジサンがどんなことを言っていたかはもう覚えていないが、険しい顔をしていて岩のように動かなかったことはおぼろげに記憶にある。
わたしが大人になってからは、そんな押し売りに会ったことはないけれど、知人が働いていた宝石屋の展示会に行って、似たような怖い経験をしたことがある。
宝石の展示会の入り口で半ば無理矢理荷物を預けさせられ、展示してある宝石を見て回る。知人がにこやかに手を振って近づいてきて、
「これ、よかったら食べて。お土産よ」
と、結構値の張りそうな焼き菓子の詰め合わせを渡してくれる。その時、わたしは変な胸騒ぎがした。この菓子代はどこから出るのだろう、もしかしたら知人の給料から引かれるのではなかろうか。そんなことが脳裏を過った。
「このタンザナイトの指輪、素敵ね」
と、入口近くに展示してあった指輪を、知人の前で左手の人差し指に嵌めてみると、5人ほどの店員さんたちにウワッと囲まれた。
「こちらにどうぞ」
と、すぐ近くのテーブルに座るように促され、目の前にお茶とローン会社の契約書が広げられる。
慌ててその指輪の値札を見ると、200万円を超えていた!
「お客様、大変お似合いですよ。お顔がパーッと晴れやかに見えますよ」
「もう、運命の出会いとでも言いましょうか。お指にジャストフィット!まさにシンデレラサイズですね」
「今なら48回の無金利でローンが組めますよ。当店がお客様の金利を払います。いえいえ、遠慮なんかされないでください。今日はお客様に感謝する日と決めていますから」
「宝石は魔除けになるんです。いつまでも若々しくいられますよ。良い出会いに恵まれましたね!」
そんなことを小一時間ほど言われ続け、あまりのストレスに、何とわたしは契約書を途中まで書いた。しかし、はっと我に返りその紙を半分に破り捨て、渡されていた菓子をテーブルに置き、出口で、
「わたしの荷物を返してください!」
と、叫んだ。
今、思い出してもぞっとする。このストレスから解放されたい、もう契約書を書いて一刻も早くこの場から立ち去りたいという思いに駆られ、危うく大きなお金を失うところだった。
知人とはそれ以来会っていないけれど、彼女も被害者だった。大粒のダイヤモンドのネックレスや指輪を買って多額のローンを組んでいたのだ、ノルマを達成できないと解雇されるから。まるで鵜飼の鵜のようになっていた。
しかし、200万円の指輪なんて、3千円のタワシどころの話ではないではないか。もちろん、「押し売り」は軽犯罪だし、どんな「押し売り」も許してはいけないけれど。
現代の「押し売り」に気を付けよう。現代の「押し売り」は進化して、金額は莫大なものになり、購入者に契約書を書かせて「軽犯罪」からすり抜けられるようになっている。
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