株の勉強を始めて合理的な人に憧れる

エッセイ

 アメリカの超大企業のCEO たちがいつもジーンズと同じ色のTシャツ(冬はトレーナー)を着ているという話を一時期、よく聞いたものだ。何でも人間の判断能力には限りがあるから、彼らは着るものなどにそのリソースを使いたくないとか。

 まあ、彼らのように、能力が高く、圧倒的な強者、つまりは巨大なお金を稼いでいる人たちの時間とは、流れ星のような速さで過ぎていくのかもしれない。

 しかし、毎日同じ服、と聞くと、わたしは、世代的に流行したアニメ「オバケのQ太郎」(藤子不二雄原作)を思い出す。確かオバQのクローゼットには、オバQの形をした白い服がズラーッと並んでいたのだった。オバQは愛嬌のある可愛いオバケなのだが、身体は透明で白い服を着ないと存在が見えない、という設定だったのかも。その辺はよく覚えていないが、

 「わたしは、あんな面白くないクローゼットは絶対に嫌だわ」

 と思いながら、リカちゃん人形に着替えをさせて遊んでいた幼児の頃の記憶がある。

 さて、株の勉強を始めて以来、わたしは合理的な人に憧れるようになった。株で成功している合理的な人たちだけが見える景色の、その一片を、どうにかして自分も見ることができないだろうか、と思う。憧れるということは、自分がその対極にいるからに他ならない。

 そこで考える。合理的の対極って、何だろう。

 「非合理的」というと、自分が単なるアホのような気がして悲しくなるので却下。「抒情的」という言葉がふと浮かんだが、合理的で抒情的な人はいるし、そういう人が芸術に打ち込んだら、壮大な作品を作り上げるだろう。

 例えば、松本清張さんがそうだろうし、森村誠一さんがそうだろう。あの方達の推理小説は伏線が緻密というだけではなく、犯罪を犯す人の動機の哀しみが切々と伝わってきて、何度読み返しても喉の奥に切り傷の痛みと温かく錆びのような血の味を感じる。

 実際、4件もの殺人を犯し、極刑に処せられた、永山則夫さん(さん付けさせてください)が書いた小説「捨て子ごっこ」と「木橋」を読んだ時、運命の不条理に完全に打ちのめされ、わたしは寒い風呂場で吐きそうになるくらい嗚咽した。(もちろん、いかなる理由があっても殺人は許されないことは分かっています)

 重い話を元に戻し、わたしは合理的の対極を「ナンセンス」と呼ぶことにしたい。

 この前、娘がスマホで、こんなツイートを見せてくれたことがある。

 Aさん:「「兆」という文字が入った漢字は2つしかない。それは「挑む」と「逃る」だ。つまり、人は、「兆」の金を前にすると「挑む」か「逃る」かなのだ」

 という、一見哲学的な香りもする興味深いツイートをされていたが、Bさんの一言のツイート返しでAさんのツイートはガラガラと崩れて終わった。

 Bさん:「桃」

 娘とわたしはキャッキャと笑い、夫にもそのツイートを見せたが、漢字をよく知らない夫は微笑みながら目をパチパチさせていた。

 合理的な人は、決してこんな間違いを犯さないだろう。そもそもこの手のツイートはしないだろうし、万一するとしても事前に、ネットで「兆」という字について十分調べたりするはずだ。

 しかし、合理的でないことを悲観することはない、とわたしは自分を励ましたい。それは生まれつきの能力や育った環境にも依るところが大きいだろう、残念がっても仕方がない。

 そして、ナンセンスからは笑いや文学も生まれる。

 例えば、わたしが大好きな芥川賞作家の町田康さん。彼の書く作品ほど、最初から最後まで心の底から笑わせてくれるナンセンスな人物がわんさかと登場する小説にわたしはこれからも出会える気がしない。彼の文章を思い出すだけで、いつでもお湯に浸かったような気持ちになれる。

 それは最強ではないかもしれないが、ひとつの最高のカタチではないだろうか。

 

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