1965年と言えば、何を隠そう、わたしが生まれた年。(別に誰も興味ないか・・・)
そう、今から約58年前に上映されたフランス映画「幸福」(しあわせ)をスマホで観賞した。(スマホでいつでも映画を観られるとは、今は何て幸せな時代なのだろう)
このフランス映画には、若かりし時のわたしの憧れがギュッと詰まっていた。
まず、なんと言ったって、舞台は、おフランス。
アラン・ドロンばりにイケメンの主人公、フランソワ、と、お針子という重労働をしながら、幼い子どもたちを懸命に育てる妻、テレーズの愛らしさ、郵便局勤めの、愛人エミリーのコケティッシュな美しさ。それに加えて、フランスの農園の、花々に囲まれた生活、使い込まれて、輝きを増す上質でうっとりするほど美しい調度品や家具、食器。美味しそうなフランス家庭料理の数々、愛情にあふれた家族の日々・・・。
そして、主人公とその妻、愛人たちが魅力的で、セクシーで、ファッショナブルなのだ。皆が、ターコイズブルーが基調の服を着て、洗練された会話をしている。まあ、どんな映画もそうだろうが、登場人物の魅力で成り立っている世界が広がっている。
ラブ・アフェアに生きる、主人公、フランソワの職業は建具職人で、わたしの父親も建具職人だった。建具職人は、釘で引っ掛けたり、鉋屑まみれになるから、安価な作業着を着ている。わたしの父は、もちろん、フランソワのように目の覚めるようなターコイズブルーのシャツを着て、愛人を作り、「君を愛している。結婚は、単に会った順番の問題なんだ」と言うような気の利いた言葉を発せられるような余裕は、とてもなかったと思う。なんというか、毎日疲れ果てていて、朴訥で、そこに人間味があって、働き者で、たくさんご飯を食べて、たんたんと前を向いて駆け抜けるような人生だった気がする。
まあ、これはプロレタリア映画ではない。リアリズムを追求した映画ではない。フランソワが愛人、エミリーに送るオシャレな言葉や手紙、家族と楽しそうにピクニックに行く風景、移ろいゆく自然、咲き誇る花々、きらめく河、透き通る空気・・・。何もかもがはっとするほど美しく、映画が流れている間、わたしは眩暈がするほどずっと感動していた。
妻との関係を壊せないことに、愛人、エミリーの理解を得たフランソワは、いつものように妻と1歳と2歳の子どもたちとピクニックに出かけ、 妻にも自分に愛人がいることを打ち明ける。
「ああ、ぼくは幸せだ。ここにもリンゴの木があって、柵の外にもリンゴの木があるとするだろう。それらが融合して、ひとつになるって素晴らしい気がしないか?ぼくは右手で君を抱け、左手で彼女を抱くことができるんだ」
妻のテレーズは、微笑みながらこの言葉に頷き、子どもたちが寝ている間に草原で、夫、フランソワと愛し合い、その後、河に身を投げることとなる。人の生の儚さが、美しい風景の中でフワッと浮き上がり、観ている者の胸に突き刺さり、突然、沁み込んでくる。
今から60年前、フランスの女性も、男の言葉に従うしか生きる道はなかったのかもしれない。お針子という重労働をしながら、育児・家事をしていたテレーズは、プチッと心の糸が切れてしまったのかもしれない。生活に疲れ果てている上、愛も居場所も失えば、心も壊れるだろう。
妻、テレーズが自死した後、フランソワはエミリーと結婚し、小さな子どもたちと再びピクニックを楽しむシーンで、この映画は終わる。何ひとつ、風景を歪めるものはない。ただ、妻の顔が変わっただけ。小さな子どもたちも、何も気が付くことはなく、草原を駆け回っている・・・。
クリスマス・イブに、こんな映画を紹介するのは無粋だし、気分が滅入った方がいらっしゃったら、ごめんなさい。
こんな映画を見ると、結婚して間もない頃、
「ぼく、絶対、浮気なんてしない。こんな人(わたしのこと)が、もう一人増えるなんて、ゾッとする!」
と、叫んだ、我が夫が愛おしくなる。
しかし、完璧に美しい映画であることには違いない。この映画の題名が「幸福」(しあわせ)(フランスの原題も”Le Bonheur”で「幸福」)というところも、ラストシーンのやりきれないほどの美しさと重なり、観ている者の心の中をターコイズブルーに染めている。
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