今回の旅で、わたしがいちばん心待ちにしていたのは、アルハンブラ宮殿を訪れることだった。
旅の中盤でひどい咳風邪にかかり、途中で帰国しようかと何度も迷った。それでも旅を続けてきたのは、この宮殿だけは見て帰りたいという思いがあったからだ。
六月初旬。初夏の強い日差しの下で、丘のあちこちに花が咲きこぼれていた。緑に映える鮮やかな色、風に舞う花びら。道を歩くだけで、心がほどけていくようだった。
丘の上に建つアルハンブラ宮殿は、イベリア半島最後のイスラム王朝、ナスル朝の王たちが暮らした場所である。
赤みを帯びた城壁の向こうには、雪を残すシエラ・ネバダの山並み。眼下には白い家々が連なるアルバイシンの街が広がっていた。
今回はツアーに参加したのだが、この選択は大正解だった。
ガイドの話を聞きながら歩くと、目の前の建物に、かつてここに暮らした人々の気配が重なってくる。王族や兵士、宮廷を支えた職人たち。ここは宮殿であると同時に、人々が日々の生活を営む、一つの街でもあったのだ。
宮殿の中へ足を踏み入れると、思わず立ち止まった。
壁を埋め尽くす繊細な漆喰の装飾。幾何学模様のタイル、鍾乳石のように垂れ下がる天井飾り。

これほど細かな模様を、どれほどの手と時間をかけて作り上げたのだろう。見上げていると、静けさの中に、遠い祈りの気配が残っているように感じられた。
庭には可憐な花が咲き、水路を水が流れ、噴水が涼しげな音を立てていた。

ガイドによると、水をふんだんに使った庭は、王の豊かさや権威を示すものだったという。
強い日差しの下を歩いてきた身体に、その水音が心地良かった。
これほどの美を築いた王朝も、やがて滅びた。
1492年、ナスル朝最後の王ボアブディルはグラナダを明け渡した。八世紀初めから続いてきたイベリア半島のイスラム王朝による支配は、ここで終わりを迎えた。
王たちが去っても、壁の模様は残った。
そのことを思うと、目の前の華やかな装飾が、急に切なく見えてきた。

しかも、この宮殿は、その後ずっと大切に守られてきたわけではない。建物が荒れ、失われかけた時期もあったという。十九世紀には、敷地の中に暮らす人々もいた。
1829年、アメリカの作家ワシントン・アーヴィングがここに滞在し、のちに『アルハンブラ物語』を出版した。宮殿にまつわる伝記や人々の話を織り込んだその本は、この場所の魅力を広く伝え、多くの旅人を引き付けた。
一冊の本が、遠い土地に暮らす人の心に、宮殿を訪れたいという思いを灯していく。そのことも、わたしの心に残った。
そして、忘れられないのが藤の花である。
ふと甘い香りに気づいて振り返ると、紫の房が風に揺れていた。
その瞬間、なぜか日本の桜が胸に浮かんだ。
散りゆくものの美しさに、人はどうしてこんなにも心を奪われるのだろう。
異国の藤の花が、遠い記憶のどこかをそっと撫でていった。

🍃心にずっしり残る小説です。お勧めします。
アルハンブラ物語 (光文社古典新訳文庫) [ W・アーヴィング ]

コメント