アラカン女性の40日間の海外ひとり旅⑯~マドリードで名画まみれになり、心が泣き始める~

エッセイ

 ポルトガルのポルトから飛行機でマドリードに着いたとき、わたしは体調を崩していた。

 旅に出る前、わたしは一日のほとんどを布団の中で過ごすほど、メンタルの状態が悪かった。    

 大好きな本を読むこともできない。

 何をしようという気にもならない。

 ただ横になって、時間が過ぎるのを待つような日々だった。

 それでも、ポルトガルやスペインの写真を眺め、旅程を考えているときだけは、心が少し静まった。

 そして実際に旅に出ると、不思議なくらい、まっさらな気持ちになれた。

 初めての歩く街。

 見たことのない風景や木々。

 知らない言葉。

 新しいものに触れるたび、止まっていた心が、少しずつ動き始めた。

 ところが、マドリードに着くと、今度は身体が悲鳴を上げた。

 夜通し激しい咳が続き、ほとんど眠れない。咳が腰に響き、ふとした拍子に激痛が走る。

 旅に出る前は、身体は元気なのに心が辛かった。

 マドリードでは、心は元気なのに身体が辛い。

 なんとも奇妙な反転だった。

 それでも、

「マドリードに来ることなんて、もうないかもしれない」

 と思うと、じっと休んではいられなかった。

 薬局で強い咳止めと痛み止めを買い、ソフィア王妃芸術センターとプラド美術館へ向かった。

絵は、画面の中ではなく、空気の中で生きている

 当たり前かもしれないけれど、絵はパソコンや本で見るのと、本物を見るのとではまったく違う。    

 静かな展示室。

 観覧者の足音。

 遠くから聞こえる小さな話し声。

 近づけば、絵具の盛り上がりや掠れが見える。

 離れれば、画面全体が突然ひとつになる。

 そして、何より大きさがある。

 その絵と同じ空間に自分の身体を置いて、初めて感じられるものがある。

 プラド美術館で、わたしがいちばん楽しみにしていたのは、ゴヤの『裸のマハ』だった。  

 以前、芸術に詳しい知人が、こんなことを言ったことがある。

「『裸のマハ』を見たとき、人生が変わった気がしたの。絵には、モデルと作家の関係がどうしても滲むのよ」

 その言葉が、ずっと心に残っていた。

『裸のマハ』と『着衣のマハ』は、同じ女性なのに違って見えた

 そして実際に『裸のマハ』の前に立った。

 素晴らしかった。

 すぐ近くには『着衣のマハ』がある。

 二枚を何度も見比べた。

 同じような姿勢で横たわる女性なのに、わたしにはまるで違って見えた。

 『裸のマハ』には、不思議な透明感がある。

 肌の色も、身体の線も、柔らかく丁寧に描かれている。

 そして何より、線から伝わってくる情熱の量が違うように感じた。

 一方の『着衣のマハ』は――これはゴヤには失礼かもしれないけれど――わたしには、どこか急いで描いたように見えた。

「はい、今度は服を着せて、もう一枚」

 そんなふうに描いたのではないか、と勝手なことまで考えてしまう。

 もちろん、本当のことは分からない。

 でも、二枚の絵を行ったり来たりしているうちに、わたしは、絵そのものより、その向こう側にいるゴヤという人間を想像し始めていた。

 どんな気持ちで、この女性を見ていたのだろう。

 なぜ、裸の彼女を、こんなに情熱を注いで描いたのだろう。

 そんなことを考えていると、いつしか心が泣き始めていた。

絵の向こうに、画家の人生が見える

 画家たちも、生身の人間だった。  

 誰かを愛し、誰かを嫌い、嫉妬し、傷つき、金銭に困ることもあっただろう。

 それでも、目の前にある花や街や人間を見つめ、絵筆をとった。

 プラド美術館に並んでいるのは、長い歴史の中で残った、ごく一部の画家たちの作品にすぎない。

 けれど、その一枚の前に立つと、そこに費やされた時間の厚みが胸に迫ってくる。

 そして、わたしは、自分の六十年ほどの人生を考えた。

 結婚した。

 仕事をした。

 子どもを育てた。

 老後に困らないよう、お金も貯めた。

 仕事に就け、心優しいパートナーに巡り合い、子どもたちも独立した。

 戦争もない国に生まれた。

 十分に幸運な人生だったのだと思う。

 ただ――。

 ただ、自分のやりたいことをして生きてきた、という手ごたえは、正直なところ、あまりない。

『我が子を喰らうサトゥルヌス』の前で、心が震えた

 そして、ゴヤの『我が子を喰らうサトゥルヌス』。

 実物を目の前にしたとき、その生々しさに息をのんだ。

 恐ろしい。

 でもわたしは、しばらく見ているうちに、またゴヤのことを考え始めた。

 この顔を描くのに、何度くらい筆を入れたのだろう。

「これは怖すぎる」

「いけない、ちょっと笑って見える」

「今度は情けない顔になってしまった」

 ゴヤがそんな独り言を言いながら、サトゥルヌスの顔を何度も描いている姿を想像した。

 もちろん、すべてわたしの妄想だ。

 でも、そうやって何百年も前に生きた人間を勝手に想像できるのも、絵を見る楽しさなのだと思う。

 身体は辛かった。

 夜になれば、また咳で眠れないかもしれない、と心配になった。

 それでもわたしは、マドリードに来た。

 辛い昼と夜を通り抜けて。

 わたしは自分の力で抜け出したかった。

 そんなことを思うと、こんな時間をくれた過去のわたしを、少しだけ認めてやってもいいような気がした。

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