最初に訪れたリスボンのアルファマで、わたしは、Googleルマップで評価の高いファドレストランを訪れてみた。
アルファマにはファドを聴かせる店が軒を連ね、夜になると、あちらこちらから歌声が流れてくる。
旅の最初の夜だった。
予約していた店で名前を告げると、店員は満面の笑みで迎えてくれた。案内されたのは、入口にいちばん近い席だった。
隣では、年配のアジア人夫婦が食事をしていた。
テーブルには色鮮やかな料理が並び、その佇まいだけで、この土地に馴染んでいる人たちなのだと分かった。

日本語が聞こえてきて、思わず声を掛けた。
「日本人の方ですよね」
「ええ、ポルトガルに住んでいたことがあるの。また来たくなってね」
婦人はそう言うと、「これ美味しいのよ」とタコサラダをわたしの皿に取り分けてくださった。
塩とビネガーがよく効いたタコは、驚くほど柔らかかった。
旅の緊張が、その一皿で少しほどけた。
やがて演奏の時間になり、わたしたちは奥の広い席へ案内された。
白いクロスの掛かったテーブルでは、人々がワインを傾けながら静かに談笑している。
「別にショーなんて見なくてもいいんだけどな」
ご主人がぽつりと言った。
その言葉だけが、不思議と胸に引っ掛かった。
その夜だけではなかった。
旅を続けるうちに、わたしは何度もレストランで入口に近い席へ案内された。
最初は少し寂しかった。
けれど、レストランで聞こえるのは、小さな話し声だけだと気づき始めた。
日本では何気なくコーヒーをすすり、水を飲むたびに鳴る喉の音も、この空間では目立ってしまう。
そう考えるようになると、入口の席は、むしろ気楽になった。
旅の途中で風邪をひき、咳が止まらなくなってからは、なおさらだった。
誰にも気兼ねせず、水を飲み、咳払いができる。
その方がありがたくなった。
ある日、電車で水を飲んでいると、喉がごくりと鳴った。
首をすくめると、隣に座っていた男性が、おもむろに自分の水筒を取り出し、一口飲んでみせた。
目が合った。
何も言わなかった。
彼は前を向いて、微笑み、目を閉じた。
その仕草に救われた気がした。
旅の終わり、バルセロナで人気の中国麺料理店に入った。
店は満席だった。
聞こえてくるのは中国語ばかり。
そして、店中に響く、麺をすする音。
ズルズル。
ズルズル。
誰も気にしていない。
わたしは久しぶりに、思い切り麺をすすった。
喉を鳴らして水を飲んだ。
それだけのことなのに、肩から力が抜けた。

帰り際、入口近くの席では、白人の男性が箸をぎこちなく動かしていた。
テーブルには、何本も麺が落ちていた。
彼はわたしと目が合うと、肩をすくめて、笑った。
その笑顔を見て、わたしも笑った。

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