アスファルトに咲く花に思うこと

エッセイ

 ああ、どんよりした空と、足からシンシンと染み渡ってくる冷気。頬も指先も冷たい。

 冬も後半になると、気持ちもウツウツしてくる。もうすっかり冬バテした感じ。

 でも、あと一か月くらいしたら、冷気が緩んで桜が咲くから、それを楽しみにこの寒さをやり過ごそう。もう少しすれば、木々が力強く輝くし、花壇にも一斉に花が咲きこぼれる。アスファルトのあちこちのクラックにも草花が咲くし・・・。

 「アスファルトに咲く花」は、しばしば「たくましい」あるいは「強い」という意味で歌にもよく使われるけれど、わたしはアスファルトに咲く草花を見かけるたびにブルーな気分になる。そして、聖書の「海の鳥、空の魚」という言葉を思い浮かべる。こんな踏みつぶされそうな、危険で窮屈な場所より、もっともっと咲くのにふさわしい場所があったろうに、などと思ってしまう。

 そんな風に考えてしまう癖があるから、渡辺和子さんの名著「置かれた場所で咲きなさい」という題名にも拒絶反応が出る。この「置かれた場所で咲きなさい」は200万部も売れたベストセラー本で、わたしもいつかは読んでみたいと思うが、本屋で手に取ることがどうしてもできない。

 「置かれた場所で咲きなさい」というのは聖書に出てくる言葉で、奥深い意味があるのだろうけれど、精神的に追い詰められている人をさらに追い詰める言葉にもなりうるから、やはりわたしは好きではない。

 でも、佐藤泰志の小説「そこのみにて光り輝く」というタイトルは、ぞくぞくするほど好き。「置かれた場所で咲きなさい」とちょっと似たような意味になると思うけれど、「そこのみにて光り輝く」は、たくましい意志力のようなものが感じられて、母なる海に抱かれているような安心感さえ感じる。

 わたしは、この「そこのみにて光輝く」を5年に一度くらいのペースで読み返している。大好きな小説だけれど、やりきれない不条理に満ちているし、切ないし、悲しいし、頻繁に読み返すにはしんどいものがある。でも、登場人物が生々しいほど輝いているし、作者の魂の気迫に圧倒されるし、不条理な中でも、人間とはなにがしかのものだなあ、と感じさせてくれる、わたしにとっては貴重な小説である。

 本の題名って、本当に大切だと思う。この、佐藤泰志の小説の題名が、例えば「濁った海は歌う」とか「最果ての男と女」(いずれもわたしが、今、テキトーに考えました)というようなものだったら、わたしは購入していないだろうし、だから、一度も読むことはなかっただろう。

 そうそう、わたしはカポーティの「誕生日の子どもたち」という小説を、人生で3回も購入した。2回目も3回目も本を読み始めた時は、以前読んだことに気づき、これだったら本棚のどこかにあるじゃないか、と、がっかりしたものだ。それほど、わたしにとって、「誕生日の子どもたち」という題名が面白そうに感じられたのだった。

 わたしの夢は小説家になること。今まで書いた小説で小さな賞と賞金(これは大事)をいただいたものは「焚火」と「昼間の蛍」、「坂道の家」、「ゼウスのヴァカンス」、その他は・・・タイトルが地味過ぎてもう思い出したくない。いやいや、「ゼウスのヴァカンス」というタイトルだけはイケてるのではないか・・・とせめて妄想しよう。

 

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