階級にこだわるイギリス人

エッセイ

 10年ほど前、イギリス人から、職場の近くのカフェで英語を習っていたことがある。

 詳しいやり方は忘れたが、1時間3,000円で週に1回、場所は〇〇で英会話を教えてくださる先生を募集しています、とネットに書き込み、メールをくれたのがイギリス人のジョンだった。

 びっくりするくらい上手に日本語を話すベラルーシ人もコンタクトをくれたが、母国語はロシア語で英語力はTOIECで750点くらい、自転車で移動しているから雨の日は来れません、ということだったので丁寧にお断りをした。

 ジョンと知り合い、わたしはイギリスについて何も知らないことに気付いた。多くの日本人は皆、イギリスに親しみを持っていて何となくよく知っている気持ちでいるが、実は何にも知らないのではないだろうか。

 まず、イギリスを「England」と学校で教えられたのは何故だろう。イギリスは簡単にいうと「Briten」もしくは「UK」で、正式名称はものすごく長い。わたしなんか、何度聞いても覚えられない。

 また、BritenはEngland、Scottland、Ireland、Wales、で成り立っていて、ジョンに言わせると、お互いに悪口ばかり言っている、ようだ。まあ、日本でも東京の人が地方の人を、京都の人が東京の人を…という感じかもしれない。

 わたしが一番驚いたのは、

 「Britenでは、夕食はどんなものを食べていたの?」

 と、尋ねると、

 「ぼくたち労働者階級は、簡単なものを食べているよ。パンにトマトのスライスとチーズを挟んだものとか。朝はオートミールだけだし。だからね、プディングとかゼリーというデザートを大量に食べるんだ。食事がつまらないからね」

 と、イギリスについて尋ねると、必ず「ぼくたち労働者階級は」と、前置きするところだ。わたしは今まで「ぼくたち労働者階級は」などと話し出す人と会ったことがなかった。(わたしが職場の会議で「わたしたち労働者階級は」と言ってみたら、皆、どんな顔をするだろう)ジョンはイギリス人なので、日本でイギリスの伝統的なお茶会のマナーをよく聞かれ、ググってそれらしいことを答えているが、いつもマグカップでしか紅茶を飲まないと笑っていた。そう言われると、昔のイギリス映画を見た時、スーツを着た紳士がぴんと小指を立ててティカップを持ち上げるのを見て、何だか面白く感じたのを思い出した。

 知り合って半年くらいたった頃、

 「皆、働いているんだし、「ぼくたち労働者階級は」なんて言わなくていいんじゃないの?」

 と、言ってみたら、

 「労働者階級が一番良いんだよ」

 と、ジョンは不敵な笑みを浮かべ、わたしはイギリスの階級制度の根深さを感じたような気がする。

 ジョンは自分が生まれ育った町を嫌っていた。6,000人ほどの人が暮らしていて、皆退屈で死にかけている。16歳から25歳までの失業率が50パーセントを超えていて、肩が触れただけで喧嘩が始まるようなところだった。誰がどんなことで悩んでいるか町中の人が知っている。くしゃみをしたら、その翌日には「風邪をひいたの?大丈夫?」と皆が声を掛けてくる・・・。ジョンは故郷についてぽつりぽつりと話してくれた。

 「アイスクリームをくれないならおじさんに身体を触られたって親に言うわよ」とアイスクリーム屋を脅していた10歳の女の子の話。

 親友の母親が売春をしていたこと。

 中学生の頃、早朝に新聞配達をしていたら、隣の家のドアの前から牛乳を盗む5歳くらいの女の子と目が合い、彼女の表情が凍り付いたので、微笑みながら目をそらしたこと。

 妻が家を出たことに絶望した、47歳の男性が「人生は瞬きしている間に終わる」と話し、その1週間後に自殺したこと。

 一人息子が11歳になった誕生日、「本当はあなたとの子どもじゃないの」と妻から泣きながら打ち明けられた友人のこと。

 実家のはす向かいに住んでいた男が動物園に侵入し、象とセッ○スして逮捕され新聞に載ったことがあるという話を聞いた時、ジョンは労働者階級というより、悲惨な人の集まった貧民街に住んでいたのではないか、という所感をわたしは抱いた。まあ、そうでもいいのだけれど。わたしも貧乏な子ども時代を過ごしたから、貧しさという理不尽さは嫌というほど経験している。

 「貧しいことは恥ずべきことではない」とは、誰も表立っては否定はできないけれど腹落ちもしない、不思議な言葉だ。

 ジョンのおかげで、井形慶子さんのイギリスについての数々のエッセイや、有名な映画監督の家のハウスキーパーとして働いたことを書いた高尾慶子さんの「イギリス人はおかしい」シリーズを読んだりし、わたしの中でイギリスブームが起きたのだった。

 

 

コメント