うちには二匹の猫がいる。
毎日、ご飯を用意し、トイレを掃除し、ブラッシングをする。具合が悪そうなら病院へ連れていく。
猫たちは礼を言わない。それどころか、こちらが忙しくしていても、平気でチュールを催促してきたりする。
それなのに、腹が立たない。
人間相手だったら、こうはいかない。
思えば、わたしはずいぶん長いこと、おせっかいを焼いてきた。
頼まれれば引き受ける。誰かが困っていそうだと思ったら、頼まれる前に手を貸す。旅行の土産や菓子もはなさかじいさんのように配り回り、会計になれば多めに払う。そういうことを、当たり前のようにしてきた。そして、ときどき、そんな自分がたまらなく嫌になった
なぜ、そんなふうになったのだろう。
母の影響が大きかったのだと思う。母は、人のお世話をすることを「当たり前のこと」として、幼いわたしに繰り返し教え込んだ。
いまでも覚えていることがある。
仲の良い友人が海外に留学していた時のことだ。
「毎月、五千円分くらい、日本の食べ物を送りなさいよ。それでも友達なの?」
母はそう言った。
でも、わたしは送らなかった。
友人には家族もいたし、お金に困っているわけではない。それに、正直に言えば、留学できる彼女が羨ましかった。
羨ましい相手に、毎月せっせと荷物を送る自分を想像すると、なんだか惨めな気持ちになった。
しかし、送らなかったことを、わたしは長い間後ろめたく感じていた。まるで相手に借りがあるような気がしていたのだ。いま考えると、おかしな話である。
そして、わたしは次第に、人付き合いを億劫に感じるようになった。
あるとき、心理学者の加藤諦三先生の本で、こんな言葉を読んだ。
「人は犠牲を払うと、その人を嫌いになる。」
やっぱり、そういうことか、と肩を落とした。
さて、猫である。
猫たちには、これまでいくら使っただろう。ご飯におやつ、猫砂、病院代。かなりの金額になるはずだ。
呼んでも来ないこともあるし、何なら寝たふりを続けることもある。せっかく買ったおもちゃやおやつに見向きもしないこともある。
でも、かわいくて仕方がない。
ときどき、隣で寝ていたり、膝に飛び乗って小さな喉を鳴らす。
それだけで十分なのだ。

では、もし猫がお金を使い始めたら、どうなるだろう。
「ちょっと気になるおやつがあって」
「お隣には新しいキャットタワーが来たよ」
そんなことを言われたら。
最初は喜んで買ってやるに違いない。
けれど、そのうち、
「この前のおやつだって、半分残したじゃないの」
と、首を振るかもしれない。
「もっと大きな家に引っ越したいの」
などと言われたら、あんなにいとおしい猫たちのことを、少し嫌いになってしまうのかな。
いや、どうだろう。
今も二匹は、陽だまりで眠っている。
それにしても、猫がお金を使えなくて、本当に良かった。
お金を使えなくて、猫に泣かれるなんて、いやだもの。

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