大浴場でつらつら感じたこと

エッセイ

 最近、コロナのこともあって、年に2回はお一人様旅行をするようにしている。

 あるホテルに泊まった時、久しぶりに大浴場に入った。広々とした浴場でゆったりするとホッとする。備え付けのボディソープやシャンプーをたっぷり使い、ジャグジーで肩や腰をほぐし、サウナで身体の芯を温める。こういう時、日本に生まれて良かったとしみじみ感じる。ふいに、ヤマザキマリさんの漫画作品「テルマエ・ロマエ」を思い出した。

 “「テルマエ・ロマエ」は、古代ローマ時代の浴場と、現代日本の風呂をテーマとしたコメディである。入浴文化という共通のキーワードを軸に、現代日本にタイムスリップした古代ローマ人の浴場設計技師が、日本の風呂文化にカルチャーショックを覚え、大真面目なリアクションを返すことによる笑いを描く。”(ウイキペディアより引用)

 わたしは、映画化された「テルマエ・ロマエ」も見て、風呂というものがいかにありがたいものかを思い知った。風呂がなかったら、人生は瞬く間にしみったれた、窮屈なものになるだろう。

 子どもの頃、わたしたち家族が住んでいた二間の借家には、「五右衛門風呂」という鉄でできた風呂が備え付けられていた。「五右衛門風呂」とは”外竈(かまど)を築いて釜(かま)をのせ、その上に桶(おけ)を取り付けて下からたいて沸かす。底板を利用して浮蓋(うきぶた)とし、その板を踏み沈めて入浴する”(コトバンクより引用)ものだった。

 だから、湯の温度を調節することも容易ではなかった。外竈(かまど)に薪を焚べる時、たいてい辺りは夕暮れていて、一人っ子でいつも寂しかったし、家は貧しいしお腹は空くし、心底、寄るべない気持ちになったものだった。

 さて、ホテルの風呂で心行くまでくつろぎ、やはり広々とした洗面台に座って髪を乾かしていたら、わたしのすぐ隣に素っ裸のおばあさんが来て仁王立ちでペットボトルの水を飲み始めた。風呂上がりであっても、素っ裸の人がすぐ隣で仁王立ち、といのは、湯立っている身体から何か匂い立ってくるような気がし、わたしは思わず息を潜めタオルで顔を覆った。鏡に映った自分が亀のような動きをしていた。気を取り直して髪を乾かし始めるも、裸のおばあさんにどうしても目が行ってしまう。しかし、いつしかわたしはおばあさんの身体に見入り、女性の身体というものについて考え始めていた。赤ん坊にミルクをあげるためのおっぱいと排泄や出産のための陰部、シワシワになった二の腕と腹、そして脚。

 わたしは高校生の頃、痩せなければ生きていけない、というような異様な恐怖に取りつかれ、摂食障害になり、食べては吐くということを繰り返していた。貧血もひどく、慢性的な疲労感に悩まされ、病院で点滴を受けることもあった。血液検査の結果を見て、医師から、

「完全な栄養不良です。戦時中の人たちでさえ、ここまでひどい数字ではなかったでしょう」

 と、眉を顰められたこともあった。

 あの頃の自分に語り掛け、なだめてあげたい。身体なんてありのままでいいのだよ、いずれ、皆、ありのままになるのだから、と。皆、おばあさんになって大らかになって、素っ裸で仁王立ちして、ペットボトルの水を飲んだりするのだよ、と。

 そんなことを思ってしんみりとしていたら、仁王立ちのおばあさんの背後を、腰にしっかりタオルを巻き両手で胸を隠した別のおばあさんがシズシズと通り過ぎて行った。

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