アラカン女性の40日間の海外ひとり旅⑥~長期旅行のメリット・デメリット~

エッセイ

 退職後の夢は、長期で海外を旅することだった。

 働いているあいだは、連休を利用しても旅はせいぜい10日前後。欧米では、一年に一度、一か月ほどのバカンス休暇を楽しみに働いている人が多いと聞くたびに、そんな旅をしてみたいと思っていた。

 昔、まだ土曜日が半ドンだった頃、アメリカ人に「日本では休日は日曜日だけなんだって?恐ろしいね」と目を見開かれたことがある。当時は大げさだと思っていたが、40年近く働いて退職した今、土曜の朝から昼までも働く生活がつづいていたら、自分は息の長いマラソンに耐えられたのか自信がない。

 退職後、その夢を叶え、40日間ポルトガルとスペインを旅した。

 長期旅行は確かに魅力的だった。名所を駆け足で巡る必要はなく、一日一か所だけ訪れ、あとは市場を歩いたり、公園のベンチでぼんやりしたり、その土地の暮らしに身を委ねることができそうだった。

 ところが現実は、そんな想像とはほど遠かった。

 航空券も宿代も食費も、一日あたりで考えれば決して安くはない。貧乏性のわたしは、「今日は何もしない」という贅沢ができず、「少しでも充実した一日にしなければ」という焦りに追われていた。

 40日間も旅をしていると、不思議なことに観光よりも「普段の暮らし」が恋しくなってくる。

 日本食が食べたい。

 肩や腰を揉んでもらいたい。

 そんな欲求が日に日に強くなる。

 口コミで高評価のラーメン店に入ってみたことがある。店主はスリランカ出身で、注文を終えると突然、「くまモンの『クマ』ってどういう意味?」と尋ねてきた。

 その時点で何となく予感はしていた。

 運ばれてきたラーメンの白く濁ったスープには深みがなく、冷凍食品と思われる大きなチャーシューはただ塩辛かった。日本で慣れ親しんだ一杯とは、まったく別の食べ物だった。

 半分ほど食べたところで、「さっきエッグタルトを食べたばかりだから」と苦しい言い訳をして立ち上がった。18ユーロのラーメン代とチップを添えて20ユーロを支払い、真昼の強い陽射しの中へ出ていった。

 そんなことが何度かあった。

 どの店も欧米人で賑わっている。この味はまったく日本の味とは別物なのに、と苦笑するしかなかった。

 もう一つ、恋しくなったのがマッサージだった。

 旅先では毎日よく歩く。石畳や坂道を歩き続けると、肩も腰も悲鳴を上げる。施術師はフィリピン出身の女性が多く、円安もあって60分で14,000〜20,000円ほど。10日に一度は通ってしまった。

 バルセロナでは、口コミの良い少し高級な店を尋ねた。

 その頃には夜通し咳が止まらず、ベッドから起き上がるとき、腰に激痛が走るようになっていた。少しでも楽になればという思いだった。

 受付で、「マッサージだけではあなたの腰は治りません。ぜひハマムも受けてください」と勧められた。

「ハマムとは何ですか?」

 そう尋ねても、「英語ではうまく説明できません。でも、受ければ分かります」としか言わない。

 藁にもすがる思いで追加料金を支払った。

 マッサージの施術後、案内されたのは暗く狭い部屋だった。裸で石のベッドに横たわり、薄いスチームの中で10分ほど一人きりになった。

 次第に肩から冷えてくる。

 寒さに耐えきれなくなり近くのシャワーをひねると、若い施術師が慌てて入ってきて、「わたしがします」と言ってシャワーを浴びせてくれた。

 その後は液体石鹸で全身を洗われ、垢すりをされ、泥のようなパックを塗られ、再びシャワー。

 すっかり身体が冷え切ってしまい、「バスタブはありませんか?」と尋ねたが、「ありません」とあっさり言われた。

 結局、自分でもう一度シャワーを浴び、髪を洗い、着替えをすませて受付へ向かった。

 ひどく咳き込み、化粧も落ち、鏡には青白い顔が映っていた。

 ところが受付には誰もいない。

 静かな店を後にし、ふらつく足取りでバルセロナの雑踏へ出た。

 今思えば、40日は少し長すぎたのかもしれない。

 2週間ほどなら、日本食やマッサージも「帰国したら楽しもう」と思えただろう。体調を崩すこともなく、旅をもっと軽やかに楽しめた気がする。

 長く旅をすると、人は旅人ではなく、生活者になっていくのかもしれない。

 だからこそ、観光旅行では気付かない疲れや渇望が生まれるのだろう。

 それでも、帰国して体調が戻ったある日、洗濯物を干しながら空を見上げると、日本の夏の陽射しが、リスボンやグラナダで見上げた光とふいに重なった。

 40日間の海外は、自分には長すぎた。

 けれど、あの光だけは、今も自分の中に残っている。

 そのためだけでも、あの長い旅には意味があったのだと思う。

コメント