ヨーロッパを旅するとき、まず気になるのはスリの存在だ。
財布を盗まれるのも困るけれど、スマートフォンを失うのももっと致命的だ。 航空券やホテルの予約、乗り物のチケット、地図まで、旅に必要なものはすべてスマートフォンの中にある。 それを失えば、旅は一瞬で立ち行かなくなる。
そのため、わたしはパスポートと大きなお金をウエストベルトに入れ、 バッグは黒いナイロン製の斜めがけを使った。 財布とスマートフォンにはチェーンを付け、バッグの内側に固定する。 見た目は地味で、「お金が入っていなさそう」と思われることを意識した。
レストランではバッグを膝の上に置き、 人の多い場所では両手で抱えて歩いた。 そのおかげで、40日間の旅で盗難の被害に遭うことはなかった。
一方で、旅のあいだ、わたしは何度も「お金を下さい」と声をかけられた。
日本では見知らぬ人にそう頼まれた経験がない。 だから、最初は戸惑った。
リスボンのテラス席でビフィーナを食べていたとき、 中年の男性が紙コップを差し出してきた。 財布にあったコインを入れると、今度はわたしのビフィーナを半分ほしいと言う。 ナフキンに包んで渡すと、彼は黙って受け取り、そのまま歩き去った。
コインブラのバスターミナルでは、 年配の女性が「喘息発作で苦しくて、娘のところにへ行きたいけれどお金がない」と話した。 わたしは財布から紙幣を一枚取り出して渡した。
バルセロナでは、道端に座り込んでいた若い女性に声を掛けられた。お金を差し出すと、「グラシアス、セニョーラ!」と言って皿を持ち上げた。わたしが手を振ると、 彼女は泣きそうな顔で、口の端を少し上げて手を振り返してくれた。その表情が今も忘れられない。
旅の途中では、「フード!」と声をかけられたり、紙コップを差し出されたりする場面にも何度も出会った。
もちろん、その人たちがどんな事情を抱えているのか、本当のところは分からない。けれど、もし、自分が外国で一人きりになり、全財産を失ったとしたら――そう考えると、財布を閉じることができなかった。
旅は、美しい景色や歴史ある建物だけではない。
そこに暮らす人々の喜びや苦しみ、その街が抱える現実にも触れることになる。
わたしが渡した小さなお金が、その人たちの一日を少しだけでも軽くしたのなら、それでよかった。
あの紙コップや、小さく手を振り返してくれた笑顔もまた、美しい景色と同じように、わたしの旅の記憶として心に残っている。


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